ロシアンティーを一杯

あくまで個人の意見です

唯物論②

前回、人間の精神は、外部の物質的環境から自由ではないと説明した。

今回は、それが社会とどう関わり合いがあるのかということについて説明する。

 

 

マルクスは物質が精神を規定するということを全社会的に当てはめて次のように言った。

「社会における物資が社会のあり方を規定する」

 つまり個人の生活に当てはまる「物質が精神を規定する」からさらに発展して、社会のあり方もまた、物質的環境によって規定されるとしたわけである。

例えば物質的に豊かな社会は助け合いの精神や優しさが自発的に生まれ人民の生活は幸福に満ち溢れたものとなり、それに基づいた政治や文化が起こる。

対して物質的に貧しい社会は、嫉妬や怒りが自然発生し、人民の生活は不幸に溢れ、それに基づいた政治や文化が起こる。

政治や宗教が「絆」やらみんなでハッピーになろうというスローガン的なことを言ったところで、人民がハッピーになったり絆が生まれたりということはありえないのである。

こういうのはわれわれの住む社会がまさに後者になりつつあるのでとてもわかり易いのではないだろうか。

その上でマルクスブルジョワジーはわれわれの精神を操作できるとした。

資本主義社会おいて物資を独占的かつ自由に動かすことができるのはブルジョワジーである。つまりここまで説明してきた「物質が精神を規定する」という状況を、人為的に、かつ社会的に実施できるのがブルジョワジーなのである。

われわれは民主主義の社会に生きているとされているが、実際はブルジョワジーによってお膳立てされた物質的環境のもとで精神支配され、その上で民主主義を演じているにすぎない。ブルジョワジーがたとえば莫大な財産を使ってメディアを動かし、選挙運動や選挙戦術を展開すれば、当然ブルジョワジーに有利な選挙が常に展開され続ける。実際選挙CMなどを大々的に行えるのは、原則として一部の有産階級の大政党に限られ、プロレタリアートが単独でたとえ選挙に出たとしてもその結果は歴然である。そのためプロレタリアートブルジョワジーに政治的に対抗するために「労働者の党」というのが政治的に必要になってくるのである(これについては後日詳しく説明する)。

なにはともあれ、ブルジョワジーは社会において物質的にコントロールできるという立場を通じて、文化や風潮を生み出し、さらにはそれをベースにした民主主義の手続きを通じて法律などをも作り出し、大衆を間接的にコントロールすることができるということである。

そしてこれは、全人類史に普遍的に当てはまる原則であり、これが唯物論的史観、いわゆる唯物史観と呼ばれるものである。

社会における物資というのは、社会的には往々にして経済を意味し、唯物史観においてはこれを「下部構造」という。対して、それによってコントロールされる法律・宗教・文化などを「上部構造」という。

こういう現象を「下部構造が上部構造を規定する」とマルクスは表現しているのだが、これは結局の所、「物質が精神を規定する」の拡大版なのである。

 

今日はここまで!